「真実のみが末通る」〜住岡夜晃の生涯〜18【真実のみが末通りたもう】

真実のみが末通りたもう


 昭和十三年、先生四十四歳の時、団創立二十周年記念聖会が開かれました。八月はじめの一週間の夏季聖会がそれに当てられたようです。
 先生はこの時の深い感慨を「創立二十周年を迎えて」というテーマで、十数頁にわたって「光明」誌に書いておられます。そこには、法難にも等しい数々の苦難を経て、ようやく人の面でも、施設の面でも宗教団体としての基盤が確立した団の現状に大きな喜びと使命を感じておられる先生のお気持ちがよく現われています。
 先生は、「よくも続いて下さったものである。まず私に押し寄せるものは深い感謝である。」と、本仏、世尊、聖人はもちろん、草創期の団と先生を支えて苦労を共にされた多くのお同胞の厚い護念とご精進に対して、改めて尽くせぬ感謝の念を述べておられます。
「同胞は如来より賜った私のすべてである。」
とはこの時の先生の言葉です。

 目前に仰ぐ善知識をお持ちにならなかった先生にとって、親鸞聖人こそ約七百年の時間をこえて生きてまします善知識でした。それはインドの世親(天親)菩薩が約七百年の時を超えて、「世尊、我一心・・」と、釈尊をこの上ない善知識として仰がれたのとよく似ています。と同時に、先生にとっては、何よりも仏法を大切にして、身柄全体が念仏になっている田舎の素朴な同胞こそ、仏法の真実を証明してくれるかけがえのない善知識だったのではないかと思います。
 
 二十周年を迎えられた先生の言い尽くせない深い感慨を結ぶ言葉は、
「ただ、大法の如く歩んで恐れざれ。真実のみ末通りたもうがゆえに。」
でした。「ただ、大法の如く」とは、人間の一切の我執を超えきった清浄真実なる仏法に、われらの人間的な私情を交えないということであり、具体的には長年の同胞といえども、仏法によらないで、人間的な愛情(情実)によって結ばれてはならないということでした。これは言いやすくして中々出来ないことです。それについて先生は、
「人来たれば大法の如く、人去れば大法の如く、賞讃にも大法の如く、非難にも大法の如く・・・」
と述べておられます。 

 「真実のみが末通りたもう」
 この一句こそ、先生のご生涯を貫いて変わらぬ不動の信念でした。
 夜晃先生ほど真実を問題にされ、真実を渇仰された人を私は知りません。しかしその先生にはるか先立って、真実を何よりも大切にされ、真実の前に一切の妥協を排された方が親鸞聖人でした。「顕浄土真実教行証文類」こそ聖人の主著の名前でした。したがって聖人にとって真実とは如来そのもの、如来のすべてであり、如来と別にどこかに真実があるということはありえないことでした。夜晃先生はその聖人の御こころをだれよりも明らかに、誰よりも深く頂かれたのです。


 先生は「仏法者は如来・真実を生きる人である。」とおっしゃいましたが、如来・真実を生きるとは、真実まことのかけらもない我執のわが身を、如来・真実に照らされ続けて歩むことです。虚仮不実のわが身に目覚めて、如来真実の前に懺悔念仏することなくして、如来・真実に生かされることは金輪際不可能なことです。
 「真実のみが末通る」とは、決して自分の中に真実を肯定することではなく、どこまでも虚仮不実のわが身に徹して、如来・真実を仰ぎいただく(讃嘆する)こと、このことに尽きるのでした。私の中に真実・まことがある、私はまごころを持った人間だと、わずかでも〈真実〉をわが身の上に肯定しようとすると、「そう思ったとたんに、その〈真実〉は、たちまち羽根が生えて飛び立ち、お浄土に帰っていく」と、先生はユーモアを込めて教えて下さいました。
 真実のかけらもないわが身に目覚めてみると、そのわが身はすでに如来真実の中にそのまま摂めとられていたのです。したがって先生は
「一切の苦悩は、真実の発揮される舞台である」
とおっしゃいます。これは先生の数々の痛切なご体験をくぐって生まれた言葉でしょう。

 このごろの先生の胸に去来するものは、私は仏法のために自分のいのちを惜しみなく捧げたいという捨身の思いでした。先生には、「汝、大法のために身命を捧げよ」という内なる声が聞こえていたのです。
 そのことを、先生は「光明」誌の「二十周年を迎えて」という文章の中に、
「私の心の底の声が、微かではあるが、汝は大法のために死ねとささやいた。」
と書いておられます。
 先生はちょうどこの十年後、五十四歳でお亡くなりになるのですから、その十年前にはやこの予感がおありだったのでしょうか。あるいは、先生はこの四年後の四十八歳の時、腎臓病が発覚しますので、すでにこの頃からお体の不調を感じて、自分はもうそんなに長くはないと思っておられたかも知れません。
 本部の庭の石碑に刻み込まれた先生の言葉 「生命を継ぐ者は生命を捧げてゆく」は、このような先生の胸中から生まれたものに違いありません。

(「真実のみが末通る〜住岡夜晃の生涯〜」は、『住岡夜晃先生と真宗光明団』教師会・2008年刊行の文章を再掲載したものです)