「真実のみが末通る」〜住岡夜晃の生涯〜20【終戦と夜晃先生】

終戦と夜晃先生


 夜晃先生の四十代は、軍部の勢力が段々大きくなり、次々と事件を起こして戦争へとのめりこんでいく時代でした。昭和十二年七月に日中戦争が始まり、十六年十二月には太平洋戦争へと拡大し、最悪の事態となりました。先生四十七歳の時です。
 しかしそのような国の前途を深く憂えながらも、ほとんどの国民は戦争に反対するどころか、戦争の勝利を信じて疑いませんでした。先生も例外ではありません。先生といえども、現人神(あらひとがみ)である天皇を統治者とする万国無比の国体(国家体制)への絶対信順を植えつけた当時の皇民教育から逃れることは出来ませんでした。
 先生は、万世一系の天皇の聖徳こそ国民道義の中心であり、如来の徳と等しい、したがって滅私奉公、無我となって、皇国日本のために忠義を尽くすことが仏法者の使命であると考えておられました。先生には信奉すべき対象が二つあり、それがひとつになっていたのです。
 しかし、当時の時代社会の空気と、圧倒的な学校教育の影響を考えれば、このことを批判する資格は誰にもありません。

 日本が戦争に負けたということは、そのような二元的価値観が完膚なきまでに打ち砕かれたということでした。これは先生にとっては相当大きな衝撃だったに違いありません。そのことを先生は次のようにおっしゃいました。

「日本国の形態は壊れた。滅ばぬものが二つあるのではなかった。いよいよ滅ばぬものはお念仏だけであるということがはっきりした。・・・・敗戦から立ち上がるには、宗教以外ないよ」( 熊谷超雄先生に対して)

「一切が滅んで、お念仏のみが残りました。お念仏に生きさせていただく時であります。お念仏の中に、一切の重荷を受け取らせていただきましょう。」 ( 内山内観楼氏宛書簡 )

 終戦によって余計な夾雑物が取られて、かえって念仏道の真実だけが明らかになったといってよいでしょう。先生の決意もいよいよ新たになったのです。
 夜晃先生は、昭和二十年八月十五日の終戦の玉音放送を原爆のためにかなりの被害を被った本部の中で聞かれました。先生五十一歳の夏でした。その日から夜の勤行の法話は、「歎異抄」の総結の文の中にある次の文についてでした。
「・・・煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
 先生はこの一文を四十九日間いただき続けられたそうです。
 
 本部の建物は、原爆のために約七割損壊し、屋根等応急処置はされたようですが、危険性も考慮して、しばらく加計の佐々木権吾さんの家に疎開されました。
 戦後、先生が口癖のようにおっしゃった言葉は、

「念仏して自己を充実して国土の底に埋もるるをもって喜びと為すべし」

でした。(この言葉はすでに戦前にも仰っておられたようです)
 国土とは、もとより混乱の極にあった敗戦後の日本の国であり、社会です。天皇を中心とした国家(お国)のためにすべてを捧げることを求められた、その国家が敗戦によってもろくも滅んでしまったのです。国民は文字通り生きるよりどころを失って右往左往するほかありません。
 しかし気がついてみれば、その滅んだ国土の底に、人間の作った国土を超えた、したがって時代や人を超えた本来の国土、本当のよりどころとなる国土があったのです。それが仏法(本願) であり仏国土でした。このように、国土の底に埋もれるとは、念仏して本来の国土に帰るという意味があるのではないかと思います。

 「国土の底に埋もれる」とはまた、具体的には一切の名利を超えて、いわゆる〝縁の下の力持ち〞になることでしょう。念仏して自己を充実することこそ第一義の問題であると共に、危機に瀕した国家社会を救うたった一つの真実の道なのです。人はこの第一義の問題を忘れると、必ず名利を求めるようになります。

 〝誰に知られなくてもいい〟、黙々と自分の為すべき仕事にまごころを尽くしていける人だけが、真に国土を支えるに足る人です。名利心に目鼻をつけたような人が何人集まっても、国家社会の危機を救うなどといったことは全くありえないでしょう。  


 

「常照是人」夜晃書

「真実のみが末通る〜住岡夜晃の生涯〜」は、[『住岡夜晃先生と真宗光明団』教師会・2008年刊行]の文章を再掲載したものです。