
私の講説は、難しいと言われる。確かに、私はここ数年御聖教の講義より外に語ったことがない。そして私は、どんなに初歩の人が混じっていようが、文字を知らぬ老人がいようが、話を安易に下げない。あらゆる種類の人がいても、同一の話をしてゆく。
皆にわかる話をしようとするよりも、一句に三日かかろうが四日かかろうが、私の心が満足するまで頂いてゆく。だから、初めての人は何のことだかわからないと言う。
私は、話が主観的であり、取り付き易くて涙多くあるよりも、客観的な真理でありたいと願っている。このことが抜きになると如何に有難いようでも、揮発油のように飛散して後には我慢より外には何も残らないようである。
しかし如来の教法は三世十方に普遍の真実なるが故に、やがて衆生の機にぴったり妥当して、大信心を成就するのである。無理がないということは、煩悩の気に入るということではない。煩悩を救うということである。
世の宗教家の中には、その心がけが真剣で熱心にありさえすれば信仰は興ると思っている人がある。もちろん真剣でなくてはならない。しかし正法ぬきの真剣では、感情だけにおわる。そして何故に本気にならぬかと、他のみを責めたくなる。御本人が深くみ法を頂戴することである。大衆と共に深く細やかに大法を頂戴すれば、自然法徳に宗教は盛んになる。
私の一家は、平和にゆきません。私の会社は円満にゆきません。どうすればいいですか。
先ず貴方が大法を聞いて念仏なさい。
そんな回りくどいことでなくて、もっと手っ取り早いことはありませんか。
いや、それが一番早道であります。それが回りくどいと思っている貴方の心の中に一切を暗くし、円満に行かせない原因があるのです。
住岡 夜晃
(『新住岡夜晃選集』第4巻収録)

