火鉢

 静かな池に小石を一つ投げると波紋がおこるように、一人の人間が平和な世界に我慢を持ち込むと、その平和が乱れる。乱れておこる波は、その人に帰り来たって迫るのが感ぜられるが故に、更にその波を打ち消そうとして、汚い我(が)の手を出す。更に波が高くなる。その時その人言わく、
 「平和ないいところだと聞いたが、来てみれば風波の絶え間のない汚いところだよ。誰も彼にも、親切などないじゃないか」
 その男とは、今の今までの我が相である。何時も煩悩具足の我の立てた尺度は狂っている。
 部屋に入るとむっと温(ぬく)い。大きな火鉢に火がおこっている。火鉢は彼の部屋が冷たいとは言わない。

 私の愛憎や我(が)が、私から発散して、それが一切万象を無明で塗りつぶす。我が我を引き出し、愛は愛を、憎は憎を引き出して、それが私に帰ってくる。それが久しきにわたると、我より出でたるものが我に帰ってくるとは思われなくなってくる。
 「あなたのことを一番思ってくれるのは誰でありますか」
 「それは、親、妻、子供、そして兄弟でありましょう」
 誰に問うてもそう答える。それに違いはない。しかしそれは愛によるのである。愛は必ず憎を孕(はら)む。であるから、一番愛するということは、一番憎み合うことでもある。一番愛するのが妻なるが故に、夫なるが故に、その一言によってすら、時に千万里の隔たりを感ずるのである。

 しかるに、親鸞聖人の奥方は、聖人を、それとなく一生涯、観世音(かんぜおん)の御化身(ごけしん)として拝まれたそうである。聖人もまた奥方を救世観世音(くせかんぜおん)の御化身として拝まれたのであった。そこには、愛の中にいつつも、愛を超えて、同体の大悲が生きており、如来の本願、清浄なる智慧によって結ばれた世界が開けているのである。
 我を、愛憎によるよりほかには念じてくれる者がいないという世界は、淋しい世界である。

(『新住岡夜晃選集』第4巻127頁より)