「光明」住岡夜晃

人は光明がなくては生きられぬ。
であるから、人は何かに光明を認めて生きているのである。
光とは何であるのか。君が光と言うのは何であるのか。
その答え一つが君の価値を決定するであろう。

貧しい者には、金こそ光である。
何とか生きて行けるものにとっては、名利の満足こそ光である。
病む者にとっては全快こそ光である。
そして君にあっては何が一体光なのであろうか。

光を求める者は、自らが暗黒の中にいることを感ずるがゆえである。
暗いから光を求めるのである。
甲は金の中にいるから安心を感じ光を感じている時、乙は金の中にいつつ不安を感じ暗(やみ)を感ずるのである。
であるから、暗を感ずるということはその人の精神生活の深さに比例するのである。

動乱そのものの人生にあって、不安を感ぜず悩みを感ぜず苦しまずして生きてゆけることが、凡夫の悲哀である。
悩まず苦しまず求めないがゆえに、真の光明が何であるかを知ることができない。
悩みに打ち当たったものは幸せである。
人生の暗黒が身にしみて感ぜられる人は幸せである。

人の世の光となった人たちは、皆、人の世の暗(やみ)に泣いた人たちであった。
普通の人が平気で通られた問題を平気で通れなかった人である。
人生をいいかげんにごまかして通れなかったのである。
生とは何であるか、死とは何であるか、
愛とは何であるか、道とは何であるか、
人格とは何であるか、自覚とは何であるか、
何一つとして解決がついてはいないではないか。

しかるに我らは、親鸞聖人の放流(ほうる)に遇(もうあ)うことができて、
光明とは何であるか、無明の黒闇とは何であるか、
自覚とは何であるか、人格とは何であるか、
道とは何であるか等々の問題を一つにして、生死(しょうじ)の一大事、後生(ごしょう)の一大事となし、
これを信の一字において解決し、念仏一行として我らの上に回施(えせ)して下さった。

念仏したとて苦しみが無くなるのではない。
念仏したとて悩みが少なくなるのではない。
正しく真に苦しみ悩むことを教えて下さるのである。
ほんとうの苦しみ方、ほんとうの悩み方のなされるところには、深い光がある。
たとい人生を楽天化してゲラゲラ笑って過ごしても、
それが至極浅薄なものであり、正しいものでないならば、その楽しみには深い闇が裏付けられている。

万世を照らすような光、万人をつつむような深い光、そうした不滅の光明を仰ぎたい。
だれに知られなくてもいい、どんな苦悩の中でもいい。
永遠の常住の光明を仰ぎたい。
それが万人の心の底の願いではないか。

暗(やみ)深きに驚くことなかれ。
暗深ければ光明も深し。
念仏道においていよいよ不滅常住の光明の無限なるを知ることである。

(『新住岡夜晃選集』[五]より)