住岡夜晃先生は、明治二十八年(一八九五年) 二月十五日、広島県山県郡原村中原(現在の北広島町中原)にお生まれになりました。お父さんは勘之丞、お母さんはコチ、先生は郁三(いくぞう)と命名されました。先生は長男で、下に六人の弟妹がおられました。家は龍頭山のふもとの山あいの小さな村にありました。この一帯は芸北(安芸の国の北部)と呼ばれ、雪の多い所でした。先生は後に自分の故郷について次のように述べておられます。
「わが故郷は雪の国である。一月二月にもなれば、毎日毎日灰色の空から綿のような雪が暗いように降る。人も通らず、風も吹かぬさびしい夕べ、綿のような雪が、見る間に天地を真っ白にする。積雪満地。天地一白。地上数尺ただ雪である。」
またこの地方は安芸門徒と呼ばれるように、浄土真宗の教えを大切にする土地柄で、お寺参りも盛んでした。住岡家でも毎日朝夕家族そろって勤行が行われ、特に朝の仏参は、幼い兄弟が交代で導師を勤め、それがすむとみんなで「おはようございます」と挨拶をすることが習慣になっていました。仏さまを中心とした真面目で敬虔な家庭の空気が伝わってまいります。また、農閑期の冬など、近所のひとが集まって、いろりを囲んで夜が更けるまで仏法のご讃嘆が行われていたといわれます。
先生は、幼い時は体が弱くて小さく、心のやさしい、感受性の強い子供だったようです。七歳のとき、原村の明倫尋常小学校に入学しましたが、その夏、自分がやがて必ず死ぬことを思い、悲しくなって毎晩のように泣いたそうです。その様子を見た両親は大変心配して、わずか七歳の子供に仏様の教えを色々説いて聞かせました。先生は後にそのことを、
「私は信心深い父と母とによって(その苦しみから解放され)、今考えても涙ぐましいほどなつかしい仏の子の生活を続けた」
と回想しておられます。道を歩くときは必ず仏さまへ供えるための花を持ち、口には念仏の声がたえなかったその少年の様子を見て、村の人は「この子は神童だ、若死にする子だ」とうわさしました。学校の成績は常に優秀で、品行も良く、すぐに級長に選ばれました。しかし先生は、その頃の自分について、「意志も弱かったし、肝も小さかったので、級長にされても、皆のためにあべこべにいじめられて、さっぱり治まらない。それでも品行は上であるし、世間からは評判のよい子であった」と述べておられます。
尋常小学校時代のエピソードとして特筆すべきことは、ある夜、本家にお茶講が催され、手次寺(てつぎでら)の本立寺の住職がこられて法話をなさったのですが、その対象はもっぱら十歳くらいの郁三少年(以後少年時代の夜晃先生のことをこう呼びます)であったそうです。住職はそのことを大変喜ばれて、「私も長い間住職として法話をしてきたが、こんな子供を相手に話をするのは初めてだ。この子はとても仏縁尊く生まれている」とおっしゃいました。お父さんはその言葉をとてもありがたく受け取り、しばらく仏前を離れることが出来なかったと、後にお母さんがおっしゃったそうです。
郁三少年は、やがて当時四年制の尋常小学校を卒業して、隣の都谷村にある高等小学校に入学しました。先生の妹の佐々木田鶴代さんの回想によれば、かすりの着物に、小倉のはかまをはき、靴をはいてキチンと帽子をかぶり、大きな白いかばんを肩にかけて、さっそうとして通学するその姿はとてもりりしく、人目を引きました。
その入学した年に、両親は、郁三少年がその小さな体で冬の雪道を通学するのは無理と考えて、学校の近くの叔母さんの家へ一ヶ月預かってもらうことにしました。それから十日くらい経った頃、夕方大雪の中を郁三少年がひょっこり歩いて帰ってきました。お母さんはビックリして、「そこにいるのは郁三ではないか。なんの用で帰ったのか。」と聞きました。彼は「はい。お金を十銭無くしたので帰ってきました」と答えました。お母さんは「そうか、では叔父さんに無くしたことを申し上げたのか」「ここへ帰ることのお許しを得て帰ったのか」と矢継ぎ早に聞きました。彼が「何もいわずに帰ってきました」と言ったとたん、お母さんは顔色を変えて、いろりの燃えさしを彼に投げつけて、「お前はお母さんの教えを踏みにじるつもりか。おじさんに申して帰ったのなら、お母さんは喜んで迎えてあげる。今頃おじさんたちは心配してお前の帰りを待っておられるだろう。さあもうすぐにおじさんの家に帰れ」としかって、玄関先で追い返しました。
彼は自分の間違いに気づいて、「よく分かりました。すぐに帰ります。ありがとうございます」といって頭を下げ、再び一メートルもある雪の中を出ていったということです。お母さんは曲がったことが大嫌いで、まだ十一歳の我が子に対しても、筋の通らない勝手なことは決して認めませんでした。私たちは後の夜晃先生を理解するカギの一つがこのお母さんの厳しいしつけにあったことを心に留めておきたいと思います。
高等小学校時代のエピソードの一つに、〝はんざき事件〞があります。はんざきは特別天然記念物に指定されている両生類の動物で、山椒魚とも呼ばれています。水のすんだ川の中に生息し、大きくなると二メートル近くなります。
高等小学校の四年生の秋のこと、学校から帰った郁三少年はかばんを放り出し、近くの川の中に入って一心に棒で何かを探していました。お父さんはその様子を見て、大声で「郁三、危ない!」と叫び、彼を川から引きづりあげました。彼ははんざきを獲ろうとしていたのです。はんざきは歯が鋭く、捕まえようとすると、身を守るために人の手や足の指先を噛んで大怪我をすることがあるのです。
その後、そのはんざきは、近所の青年たちが大きな棒に噛み付かせたまま川から引き上げて、殺してワラ束の中に入れて蒸し焼きにしました。郁三少年はその間、熱心にはんざきの写生を続けました。彼は絵を描くのが大変好きで、展覧会等でしばしば入賞していました。青年たちは焼き上げたはんざきを肴にして酒を酌み交わし、大いに盛り上がっていましたが、彼は黙って部屋の中にこもり、「僕はただ、はんざきを描きたかっただけなんだ、僕がはんざきを見つけなかったら殺されることもなかったのに、本当にかわいそうなことをした」と嘆いて泣きじゃくるので、お父さんはどう言って慰めたらよいか、説得するのに困ったと語っておられたそうです。このように、生き物の命に対する郁三少年の感受性は人一倍強いものがありました。
このようにして先生の少年時代は、何よりも仏様の教えを大切にされるご両親の愛情を人一倍受けて、人間として大切なものをしっかり身につけつつ、のびのびと成長してゆかれたのでした。
(「真実のみが末通る〜住岡夜晃の生涯」は、『住岡夜晃先生と真宗光明団』2008年刊行の文章を再掲載したものです)