「真実のみが末通る」〜住岡夜晃の生涯〜11【愛別離苦】

 ここで先生の私生活について少し触れたいと思います。先生は大正十二年八月、二十九歳の時、石田八千代さんと結婚され、三人の女子を儲けられました。しかしその長女の哲子さんが数えで三歳のとき、ジフテリヤという病気のためにアッと言う間に亡くなられました。ちょうど先生が福山に講演に行っておられた時でした。先生は電報を見られて大変衝撃を受けられ、すぐ帰られたもののその悲嘆と苦悩は底知れぬものでした。しかしその苦悩のはてに、先生はわが子の死を、今まで一度も受けたことのない大説法、無言の大説法として受けとめられました。この実相の前に、一切の理論も学問も崩れて間に合わない罪悪のわが身を引っさげて、涙の中にも、いよいよ一道を新しく歩んでいくことを誓われたのです。

 さらに翌年の昭和二年(一九二七年)九月、敬愛してやまない念仏の父、勘之丞さんが七十四歳で浄土に還ってゆかれました。先生は三十三歳でした。わが子と父親と、相次ぐ厳しい愛別離苦に出会われた先生の心境は察するにあまりあります。そのときの気持ちを先生は、
「追えども追えども慈父は永遠にましまさず、語れども語れどもついに答えましまさぬ。写真と遺骨、地にある者の心は、愛別離苦の凡情にとらわれて はてなく暗い」
と述べておられます。

 同じ別離でもわが子と父親とでは、その内容が大きく違っていました。お父さんは七人の子を育てるために度々借金されるなど、苦労の多い人生でした。しかし長男である夜晃先生をいつも「兄、兄」と呼んで大切にされ、先生がどんなに世間の非難や攻撃を受けられようとも、全幅の信頼を置いて、終始一貫先生の宗教活動を理解し、先生と苦労を共にしようとされたのです。そしてご自身は何よりも仏法を大切に頂かれ、何が出てきても念仏もうして、如来に救われきった人でした。したがってそのお父さんを失われた悲しみは、わが子を失った悲しみに比べれば、もっと静かな、底深い寂しさを伴ったものでした。

 先生はお父さんの尊い生涯を振り返って、次のように讃嘆しておられます。

「求道を離れては、如来を離れては、父の一生はなかった。如来に救われ、如来に生きて、この世から生の一歩一歩が永遠への白道の歩みであった。」

「父は久遠の如来と一体にてまします。慈父を憶(おも)うとき如来を憶い、如来のあるところに慈父まします。」

晩年に著された「愛別離苦」 昭和24年5月1日発行『光明』より

 先生にはもう一つの別れがありました。それは結婚して三人のお子さんを儲けられた八千代夫人との離縁です。あまりにも厳しい現実に、夫人は二人のお子さんを残して去ってゆかれました。これは、先生といえどもどうすることも出来なかった悲劇でした。先生の悲しみと苦悩のほどはいかばかりだったでしょうか。このように、先生の三十代前半は、次々押し寄せる生活苦、人生苦のために、先生の短いご生涯の中でも一番厳しい〝試練〞の時代でした。しかしこのような赤裸々な苦悩をくぐることなくして、その後の夜晃先生と「光明団」の大いなる飛躍はなかったと言えるかも知れません。

(「真実のみが末通る〜住岡夜晃の生涯〜」は、『住岡夜晃先生と真宗光明団』教師会・2008年刊行の文章を再掲載したものです)