光明団の方向の転換
今では考えられないことですが、本部が広島市内八丁堀にあった頃でしょうか、本部員をはじめ何人かの同胞が行列を作って、夜の繁華街を果敢に街頭伝道されたことがありました。妹の田鶴代さんの回想によると、「光明団」というたすきをかけて、ちょうちんを掲げ、タンバリンをたたいて、団歌を歌って、本通りへと繰り出したそうです。関心を持ってくれる人々があると、「光明団本部で主管が待っています。どうぞ正しい浄土真宗のお話を聞いて下さい」と叫び、ついてきた聴衆に、先生が合掌して静かな声で法話をなさるのです。その法話を聞いて感激して、休憩時間に喜捨される方もあったようです。
この街頭伝道に象徴されるように、一人でも多くの団員を獲得することを目標とされた時期がありました。講習会の開催地も、昭和五年の夏までは、備後の鞆の浦の近くのお寺を借りるなど、海水浴も兼ねるような会座だったそうです。それが翌昭和六年から団の方向が大きく変わりました。それを先生が次のように述べておられます。
「この時代までは、団の大衆を獲得することに進んでいた。しかし、それは(空中に)灰を播くがごときものであったことがわかり、急角度に(団の)方針は変わった。大衆ではない、私だ。私自身がもっともっとみのり(法)をいただくことに懸命にならねばならない。大衆をどうするよりも(その)前に、私は私であらねばならない。・・・教人信(きょうにんしん)よりもまず自行(じぎょう)だ。そうだ、自行の臼(うす)をつくのだ。私の周囲には、縁のつながる人がある。私はその一人ひとりを明らかに見ようとした。そうして、来るを拒まず。去るを追わず。因縁ある人と一緒に、より明らかに、そして静かに、お念仏の一道を精進しようと決心した」
「われらは今確かに新しい出発点に立っている。われらにとっての唯一の根本精神は、量の獲得よりも質の純化である。」
このような団の方針の転換にもとづいて開かれたのが、昭和六年(一九三一)の夏季幹部講習会でした。それまで四年間続いた福山の鞆の浦の明円寺の夏季講習会を打ち切って、閑静な山陰(鳥取県東伯郡)の東郷温泉のホテルを貸し切って、八月一日から一週間、本格的な厳しい講習会がもたれたのです。この講習会が、その後の光明団の講習会の原型となりました。先生の講義の内容は「歎異抄」でした。遠近各地から集まった道心に燃える同胞七十五名、その中に中堅リーダーとしてこの会座を積極的に支えて下さった方々が五人おられました。いずれも山口、島根といった地方の有力なお寺のご住職でした。柳田西信、武井諦了、河野直臣、柳井覚善、幡谷淳信といった先生方です。このようにすでに光明団には、夜晃先生の教えに深く共鳴され、先生のご教化を蒙られた優れた僧籍の方々が団員となって、団の活動をしっかり支えておられたのです。
なおこの年の四月、先生は福山の同胞、石井英一氏の二女和枝さんと再婚されました。先生三十七歳の時です。得がたい良き伴侶を得られて、先生の自信教人信の活動が益々本格化したことはいうまでもありません。
(「真実のみが末通る〜住岡夜晃の生涯〜」は、『住岡夜晃先生と真宗光明団』教師会・2008年刊行の文章を再掲載したものです)