「真実のみが末通る」〜住岡夜晃の生涯〜9【大いなる決断の時】

大いなる決断の時

 先ほど触れたように、五周年大会のあと、宗教活動をするのなら教職をやめよ、教職を続けたいなら光明団運動をやめよと迫った一部の青年がその主張のよりどころにしたのは次の文書でした。

「教員タルモノハ常ニ寛厚ノ量ヲ養ヒ中正ノ見ヲ持シ就中(なかんずく)政治宗教上ニ渉リ執拗矯激ノ言論ヲナス等ノコトアルヘカラズ」

 この文書は、明治十四年に出された「小学校教員心得」(文部卿 福岡孝弟による)の中の一節のようです。この文書を根拠にして一部の青年が村当局に迫ったので、村も無視できず問題にせざるを得なかったのです。この文書を持ち出した意図は、盛んなるものを妬み、光明団に致命的な打撃を与えることにあったとしても、この内容そのものには一応の道理があり、いくら夜晃先生が教師として抜群な力量を持っておられて、生徒や保護者からの信頼が厚いといっても、あれだけ活発な運動をしてこられた手前、反論出来にくいものがあったと思われます。先生の宗教活動は、浄土真宗を大切にする土地柄と、今日のような厳しい政教分離原則を持たない明治憲法のもとなればこそ可能だったのです。したがって先生もただちにその道理を認めて、教職をとるか光明団をとるかどちらしかないと考えられたに違いありません。

 教職を捨てるか、光明団を捨てるか、文字通り人生の岐路にたち、ギリギリの決断を迫られた先生は孤独そのものでした。先生は大正十二年の「光明」六月号に、ご自分の心境を詳しく述べておられます。そのゆれ動く心の葛藤は、おおよそ次のようなものでした。( 要点のみ )

 「教職を捨てる」ということは、〝パンの資〞を失うことであり、平安な生活を失うことである。また、飯室小学校に着任して以来満七年間、ひたすら愛情を注いできた学校と、無条件に自分を慕ってくれている純真な子供たちを捨てることである。子供の顔が一度に見える。先生先生と騒ぎ立てる教室のさまが浮かんでくる。かねて覚悟していたとはいえ、無限の執着が湧いてくる・・・。

 また、「教職を捨てるのはあまりに惜しい。もう数年もすれば恩給がつくから、今は一時光明団をやめて、それからまたはじめればよいではないか」というもっともらしい常識人の声もおのずから耳に入って来る。それに対して「光明団を捨てる」ということは、学問よりも名前よりも財産よりも、もっと高価な何かを得たい、永遠の生命、真実のいのちを得たいともがき苦しんでいるたくさんの若人の願いを、道心を無視することになる。あの山この山のおちこちで念仏申して生きている尊い兄姉の涙を裏切ってもよいのか、と内なる声はささやく。しかしその一方で、「あのように迫害されたら光明団はもう終わりだ。団員といっても一時湧いただけで本当に信仰の道に入ったものは少ないぞ」という悪魔の声も聞こえてくる・・・。

 先生は、だれもいない日暮れ近い学校の音楽室に入って、椅子にもたれてただ一人ジット考え続けられました。右すべきか、左すべきか、その岐路の内容について、先生は後に次のようにおっしゃっておられます。

「右には栄達と幸福と安逸とが待ち、左には苦難と貧困と波乱とが待つ。よし右の彼方には地獄の火が待ち、左の彼方には光明の天地が横たわろうと、凡心はあくまで右にゆけと命じ、たとい脚下は火の海であろうとも、真理はあくまで左にゆけと命ずる」

 この言葉からすれば、この決断は先生にとっては、凡心(煩悩)と真理との戦いであったのです。沈思黙考されること約一時間、時計はもう夕方六時をまわっていましたが、先生はついに決断されました。

「学校をさる!学校をやめて自由に如来の大悲を叫ぶのだ!」「教職に死して念仏に生きる!」

 そのときの、一切のはからいを超えて突然に飛び出した思いを、先生は端的に「生きよ!突破せよ!大死!」と言う言葉で表現しておられます。また、「魂の底から吹き出す力、自然にほとばしり出る、どうすることも出来ぬ、絶対命令」とも言っておられます。先生を超えた大いなる真理(真実)が、先生と一つになって、先生を突き動かしたのです。真理が凡心に打ち勝ったのです。その血みどろの戦いの時間がわずかに一時間であったとは!

石碑「生命を継ぐ者は 生命を捧げてゆく」住岡夜晃書

「私は私の生命の一道を歩めばいい。一緒に歩む方々が多いのを望まぬ。けれども人一人の歩みが真実であるならば、それは常に万人の道の開拓であった。・・・私は途中で斃(たお)れるかも知れぬ。誰でもいい、私の屍を越えて行かねばならぬ」

 先生はたった一時間で、このような決断をなさったのです。この決断がどんなに重いものか、どんなに苛酷な現実を招くものか、その前途がはかり知れない茨の道であることは、誰よりも先生ご自身がよく分かっておられたのに、先生はかの、法然・親鸞の両聖を打ち砕いた「吉水教団」の血の悲劇に思いを馳せて、「何という小さな試練だ!」と何度もつぶやかれたのでした。大正一二年(一九二三)六月、夜晃先生二十九歳の時でした。もしこの先生の決断がなかったら、今日の真宗光明団はありえなかったし、この邪見憍慢な私が、親鸞聖人の真意(おこころ)に触れ、本願念仏の道に立つことは全く不可能だったと言わざるを得ません。

(「真実のみが末通る〜住岡夜晃の生涯〜」は、『住岡夜晃先生と真宗光明団』教師会・2008年刊行の文章を再掲載したものです)