願の内的風光
かくて、成仏の願は現実人生を離れては意味を持たないし、人生を超絶せる涅槃に根拠がなくては不可能である。
法蔵菩薩は師仏世自在王如来にむかって、
「いいしかり、世尊、我無上正覚の心を発せり。願わくは仏、我が為に広く経法をのべたまえ。我まさに修行して、仏国の清浄荘厳無量の妙土を摂取すべし。我をして世においてすみやかに正覚を成じ、諸(もろもろ)の生死勤苦(しょうじごんく)の本(もと)を抜かしめたまえ」
と告げられてある。
すなわち法蔵の生命は、「我、無上正覚の心を発す」ところにのみあり。
しかして、この願心は「生死勤苦」の中においてのみ発される。
しかも、生死の苦を諦観(たいかん)するものは、必ず「諸の生死勤苦の本を抜かしめたまえ」と願わざるをえない。
生死勤苦の本を抜くこと自体が、「世においてすみやかに正覚を成ずる」ことによってのみなされるのである。
故に、法蔵の心は限りなき生死の闇を知り、罪悪煩悩を内観する心である。
誠に衆生煩悩は、限りなき闇そのものである。
眼、耳、鼻、舌、身、意の六根は雑多なる八万四千の刺戟(しげき)を受け入れて、それと一々問答し、自然発生的に躍り狂ってやまぬものである。
一般に、そこにおこす自然発生的な心の心身の動きを欲というのであるが、その貪欲・貧愛が、逆境にあっては瞋恚憎悪(しんにぞうお)の炎となって燃えさかり、順境にあっては我慢を増長するのである。
しかして、この貪欲・瞋恚は愚痴と離れたものではないから三毒と呼ばれる。
大地の群萌はこの三毒に狂って自他を苦しめつつ、しかも悪を悪と知らず、煩悩を煩悩と知らぬこと、火が自ら熱しと感ぜず、氷が自ら冷たきを知らぬと同一である。
かくて、群萌は「欲」はあつても、「願」はもたぬものである。
三毒の煩悩はそれ自体が無明であり虚妄(こもう)であって、真実ではない。
願はこの無明を無明と知り、虚妄を虚妄と観ずる一面を持つ限り、我及び人生を否定する真実であり、光明でなくてはならない。
しかして、かかる我及び人生の否定は、前述の如く絶対真実なる涅槃より等流(とうる)する生命の力によってのみなされるのである。
一般に菩薩は、その生まれ出でたる故郷なる真如界を憶念して三昧(さんまい)に住すと言われ、生死海に大悲同感して大慈悲をおこすと言われる。
智慧によるが故に涅槃に通ずるのであり、慈悲によるが故に生死界に同感するのである。
涅槃からの智慧光によらねば、現実の否定はおこらない。
大慈悲によらなければ、現実生死界の摂取同感はあり得ない。
凡夫は生死煩悩の中にいつつも、煩悩と水油、相逆らうものであり、苦悩の中にいながら人生の否定を知らぬものである。
すなわち、飽くことなき楽を追求し、苦を逃避していよいよ貪愛に陥り、ますます苦悩に陥ってはてしなきものである。
彼岸より人生に還相(げんそう)して、成仏の願をおこす法蔵の大慈悲のみが、暗(やみ)を暗と知り、貪欲を清浄ならざるもの、瞋恚を真実ならざるものと観じ得るが故に成佛の志願をおこし得るのである。
誠に法蔵の願心のみが生死を生死と知り、涅槃を涅槃と知り得るのである。