まだ、私が二十代の頃でした。
法を聞いても最初の頃ほどの感激もなく、よろこんでいる人を見ると邪魔になり本心でもないのに表面だけではないかと冷たい眼で仏法を聞く人までも信じられなくなって来て、これではいけないと、思い切っておたずねしようと思い先生の部屋に伺いました。
「私は近頃聞法しても全くひびかず、蛙の顔に水のように何ともなくなって困っています」と申しました。
たばこをふかして居られた先生がやおら顔を私の方に向けられて、「今もその心があるか」との問い。
「はい」と申しますと、「それはよかった」全く意外な答えがとびこんで来た。
更につづけて、「若の聞法が、うかれたものでなければよいがと思っていた。
何を聞いてもひびかないのは心の底の青石(あおいし)だ。
日本海の海の上に小さな岩がのぞいている。
しかし海面にあらわれているのはわずかでも、あの岩は地球全体につながっている。
何を聞いてもおどろかぬ心の青石は地獄の底までつながっている。
誹謗正法(ひほうしょうぼう)とはその青石のことだ。
なくするものではない。
青石のあることを見おとさず聞いて行くのだ」。
私は私より先に知ろしめすお方があったことは私の人生を決定する程の大事(だいじ)でありました。
お蔭で、なくならぬものはなくしようとせずあるがままを見つめること、これこそがこの世において私に可能な唯一つの道であることを年と共に知らせて頂きました。
しかもその青石の深くして底もなく、広くして涯(はて)のないことを大悲したもう如来ましますことを信知させて頂きます。善悪ばかりを問題にし、我が身をよしとする執念の深い自我(じが)の塊(かたまり)であることを知るものは私ではなかった。私をあるがままに知ろしめすもの、そしてこの身を大悲したもう無碍光仏(むげこうぶつ)のおんこころの内にあるわが身に気づくことこそ回心帰入(えしんきにゅう)でありました。
この身を如来の本願海に回入せしめられるということは、如来によって大悲せられ愍念(みんねん)されて来た私自身に目ざめることであります。
(大森忍『正信偈に聞く』より)