「超日月光(ちょうにちがっこう)」

 私が生きていることは、真実なるものに遠い相においてであるか、あるいは真実なるものに近く相応する相においてなされてあるか。そうしたことを少しも考えないで生きていられること、それはまことに恐ろしく悲しいことである。
 それは私が今どこにいるかということを考えないで歩いているようなものだからである。

 私の生きている位置? おかしい表現ではあるが、ほんとうに生きることについて考えるものは、私の生きている位置ということについて考えざるを得ない。大洋を走っている船は、必ず、その船の航路を誤らぬ為に、羅針盤によって方向を正すことと、東経何度、北緯何度と、その船の位置を定めることとが絶対必要である。それと同じように、私が生きてゆくのにも、私の生きる方向がなくてはならないし、生きている私の位置を知らなければならない。
 人間の生きる世界は、それはその人によって広狭浅深、千差万別である。それは、その人毎によってその生きる視野が異なるが故であろう。一国の運命と自己の運命とを一つにする人もいるであろうし、向こう三軒両隣だけの上げ下げで生きている人もあるだろう。そして同時に自らの生きる世界の位置をその中にあって測って決定しようとしているのではあるまいか。そしてその各々の世界に処してゆく心根をたいがい「信念」という言葉で言い表しているようである。上は一国の大臣が、国事を処理する場合から、下は一村一部落に対する場合まで、生きる自己を決定して「不動の信念」を云々しているようである。
 しかして多くの場合、その信念も、一時的のものであって、やがて信念そのものもおし流されてしまうことが多いのも知らずに。今や、日本の知識階級にはそのような信念なき一人の人も見当たらないようになった。歎かわしいことだと誰かが言った。

 私が現に今生きていることは、真実なるものに遠い相においてであるか。真実なるものに近く相応してであるか。
 じっと深く考え、敬虔(けいけん)に額(ぬか)ずいて、真実なるものの真の声を聞こうともせず、無限に内に歩もうともせず、己の真相を知ろうともせず、道の中に己を投じようともせず、貪欲(とんよく)中心の自由主義的立場を保持しつつ、不動の信念を語る。聞くもの見るもの真に感動するものなく、輝かず、響かず、ただいたづらな不快なる雑音を増すこととなるのは何故であろうか。
 梅にして梅を語り、牡丹にして牡丹を語る。人の言にして、その人に相応せば言もまた華たるべし。
人は必ず、その言の如何によらず、必ず己を白状して隠すことなきものである。
であるが故に、先づ汝の胸中に何ものありや、汝の内心に何ものありや、汝を知ることによって汝の住するところを知るべきである。軽々しく信念を語り、軽々しく信念を棄て、軽々しく信念を変更をし、信念と誤認して己が無理を通すが如きは、汝そのものを二束三文に安価ならしめ、何ものの信念なきを示すものである。
 ここにおいて、信念をして不動たらしめんとすれば、信念の対象を流転の中に求めてはならない。信念の対象にして流転の中にあらんか、信念もまた流転するであろう。信念流転すれば、人格もまた流転すべきが故である。
 
 超日月光、流転の千縁万縁を超絶したる超日月光の光明に信の根拠を見出して、

  「光明月日に勝過(しょうが)して 超日月光となづけたり
   釈迦嘆じてなほつきず 無等等(むとうどう)を帰命せよ」

と讃嘆(さんだん)せられたのは親鸞聖人であった。日月より手前、即ち生死界(しょうじかい)内にのみ生きんとするものは凡夫(ぼんぶ)であり、生死界を恐れて出でんとするものは二乗である。生死界外の超日月光に摂取さられて、生死の中にいつつも、実在界の光明を生死煩悩中に具顕するものは大乗の菩薩である。この大菩薩の道のみ不退転である。

『新住岡夜晃選集』第四巻より