「永遠の戦場」

ワシントン会議が開かれて、軍備縮小が実行されて、日本や米国や英国の海軍力を制限し、巨万の富をかけて軍艦が打ち沈められ、軍艦建造が自由にできなくなってきました。
行く行くは世界から戦争という二文字をなくする考えでありましょう。
しかれば、果たしてこの地上から、血なまぐさい戦争がなくなるでしょうか。
まことに戦争をなくしたい。
数百万の人の命と、数百億との財宝とを使って世界を修羅場にした、あの欧州大戦乱を終極として、いや今日この頃中国において行われつつある動乱を最後として、地上我等の子孫をして戦争を過去の昔噺(むかしばなし)の種となさしめたい。
それが果たしてできるか。
できるか否かを私に問うて見たらいい。
私はまたも私にかえらねばならない。

思うてここに至る時、私はまたもや千載悲泣の痛ましい凡夫であります。
平和を喜び、人々と共に和らぐ世界の欲しい心は人一倍強いと思う私の心の裏には、不思議にも、法爾自然(ほうにじねん)に、争わねばやまない心が動いているのであります。
人の小さい過失をも責め、妻や妹や親の言葉尻さえ捕えて争わねばやまない悪魔を見出すのであります。
貸した金を支払わない時、一度や二度は言葉柔らかに言ってみるが、ついには法廷に出て白黒を定めたい心、私の仕事に対して邪魔をする者をば、力をもって亡ぼしたい心、私のパンを取って食わんとする者と戦って、私のみが生きてゆかんとする心、その心こそ、実に世界から戦争をなくすることのできない原因ではないか。
 
噫(ああ)、まことに私にこの心のある間、ここ数日広島の天地に爆音高く飛んでいるあの飛行機も、ついに戦いのために使われるであろう。

私どもの過去において、多くの聖者、哲学者によって、平和論は説かれた。
そうしてそれが人間の理想でもあった。
しかしながら、歴史あって三千年、人の世の記録はついに戦争の歴史でしかなかった。
戦争なくしては人生はないのか。
戦いなくしては人生はないのか。
戦いなくしては平和もないのか。
しかもこの地上から戦いをなくしようとすれば、私のこの心中の賊を亡ぼされる日がこない以上、ついに永久平和の理想は人類の唯の夢でしかないのだ。

しかして私は毎日この悪魔に悩まされ、ついに、これを征服することに絶望したのだ。
故に人類もまたついに、この永久平和の理想を永劫に棄てなければならないのだ。
まことに、私の心中に現れ出ずる戦いの心こそ、満州の野に幾万の同胞を白骨にし、海に恐ろしい軍艦を列べ、陸に厳しい剣戟(けんげき)の林を立てているのである。
全てが我一人の責任なるが故に、罪悪なるが故に、世界列強の会議でもいかんともできない。
法律や訓令ではいかんともできない。
私が私のこの反逆者を退治するより外に一生衆生の救いはあり得ない。

まことに我を裏切る者、我に叛(そむ)く者は我であった。
しかもその我に叛く群賊をついに如何ともすることができないのだ。
ここに我はついに、精神的破産に陥ったのである。
永劫救うべからざる我を見たのである。

我が聖親鸞は、この悲痛なる生命破産の我を見出して、血をもってかの信巻に書きつけたのである。

(一)
「一切の群生海、無始(むし)より已来(このかた)乃至今日(こんにち)今時(こんじ)に至るまで、穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄の心(しん)なし。
虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし」

(二)
「しかるに無始より已来、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪(しょうりん)に沈迷(ちんめい)し、衆苦輪(しゅくりん)に繫縛(けばく)せられて、清浄の信楽(しんぎょう)なし。
法爾として真実の信楽なし。
ここをもって無上功徳、値遇しがたく、最勝の浄信、獲得しがたし。
一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚(けが)し、瞋憎(しんぞう)の心常によく法財を焼く。
急作急修(きゅうさきゅうしゅ)して頭燃(ずねん)を灸(はら)うがごとくすれども、すべて『雑毒(ぞうどく)・雑修(ざっしゅ)の善』と名づく。
また『虚仮(こけ)・諂偽(てんぎ)の行』と名づく。
『真実の業(ごう)』と名づけざるなり。
この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土に生まれんと欲する、これ必ず不可なり」

(三)
「しかるに微塵界(みじんかい)の有情(うじょう)、煩悩海に流転し、生死海に漂没(ひょうもつ)して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし」

〈中略〉

こうした親鸞の血の叫びは、即ち久遠劫来の暗黒を自分のうちに見出して、自分という者の権威も、価値も粉微塵(こなみじん)に打ち砕かれた慟哭(どうこく)の声である。
なげ出された愚禿(ぐとく)の姿である。
この深刻なる目覚めこそは、我一人のうちに、一切衆生の罪悪に泣き、煩悩に苦しみ、暗(やみ)から暗に沈んでいく痛ましい姿を自分のうちに見たのである。
我々はここに我のこの久遠劫来の我に目覚めて泣かねばならないと共に、一切衆生を見て泣かざるを得ないのである。
一人の罪悪に泣く姿こそは一切衆生の罪悪を自己のうちに感ずる姿である。
ああ我は一切人類と共に救われない久遠の凡夫であり、浮かばれない永劫の衆生であることを、生死の大海、一切の群生海に見出したのである。

(『新住岡夜晃選集』[二]より)