「十八願のこころ」

生まれた者の中に生まれたことのないものが生き、
死ぬる者の中に死ぬることのない者がささやく。
生まれた者が生まれた者であることに徹し、
死ぬる者が死ぬる者になりきる時、
生まれもせず死にもしないものが、我になりきり給うことがわかる。

諸行無常になりきることが、そのまま常住なるものに生きることである。
十八願のこころである。

現世を祈る心は人間の心である。無智と、幸福を求める人間の当然の心である。
いかに禍いに充ちても、現世を祈らないで、そして自暴自棄に陥らないで、最後までありのままを抱きしめ、背負いきって歩みつづける人の足跡には、人類をうるおす尊い血が流れている。

「あれを見よ深山(みやま)の奥に花ぞ咲く、真心つくせ、人知らずとも」
人も見に来ぬ山奥に咲く桜、その花の心を知るや。黙々の努力の人。
花咲かずして賞讃を求め、生ききらずして憤る。
何故に我が心と語らざるか。
我が心、我が心を信じ、我、我と語る者、やがて仏と語る。

十八願の心にはゆとりがある。
庭の桜の木に花を咲かせてくれることよりほかに謝礼は求めぬ。
十八願の世界では、念仏の華に生きることのそのままが報謝である。

自分1人が真実に生きている気で、高い所から見下すことが人間の我慢である。
十八願の心は、南無阿弥陀仏を通して全てを見る、低い合掌の心である。
自分の中にこそ一切の悪の相を見とどける世界である。

宗教は宗教によってのみ否定される。
十八願の宗教は無宗教の宗教である。
美しい象牙の塔を懈慢界(けまんがい)と言い、胎宮(たいぐう)とよばれる。
女人禁制の山からおりて世の中に隠遁された時、聖人は仏に会われたのである。
真実の仏は、温かい静かな聖者の住む山の頂にはましまさずして、煩悩の風の吹き荒らぶ苦悩の衆生の曠野(こうや)にこそ、いたもうたのである。
北越の雪の中にこそ、愚禿(ぐとく)を待ち給う法蔵菩薩がましましたのではなかったか。

人間の声が宗教を讃美したり否定したりする。
一番宗教を擁護し讃美するかに見える大本山、大伽藍の中に仏はましまさないで、宗教を否定するかに見える人間の世界に、仏は今も名告り給うてあるかもしれない。
十八願の宗教は法蔵菩薩のみこころである。
法蔵菩薩は、風荒き人間の曠野に行き給うのではあるまいか。
十八願の宗教は曠野の宗教である。

[無想録20「十八願のこころ」(『住岡夜晃全集』第17巻収録)より抜粋]