「教育」

人は全て金持ちになれば幸福を感謝し、食にも困るほど貧しければ、その不幸を呪うものである。
幸福に出会って感謝し、不幸に遭遇して悲しむ人の子には、そこに種々なる教育がある。
感謝せよという教えがある。
富めば富んで感謝し、貧しければ貧しくて感謝する。
病気を感謝し、衣食に感謝し、子に死別されて感謝し、火事にあって感謝する。生活の一切をあげて感謝せよとの教えである。
しかし考えて見なければならない。
それが果たして行きづまりのできない日暮らしだろうか。
子供が生まれて喜んだ者は、子供を失って泣かねばならない。
富むことを感謝していたものは、貧しくなれば呪うのが当然である。
一家が全部達者であることに幸福を感じていた者は、病魔におそわれた時は暗い一家になるのも当然である。
一度や二度は、不幸に出会っても、神の試練、仏の御はからい、御催促だと感謝もしよう。
けれどもそれが末通った道であろうか。

私の生活相そのものを感謝の種に見て行こうとする教えは、ついには私を躓かせるのである。
幸福であることを感謝せよとも言わない。
そんな常識的な世界を去って、もっと深い世界をのぞいて見よう。

私どもは、唯ぼんやりと感謝の霧の中に自分を偽ってもならない。
真実の価値を見失って、永遠のさまよいに沈んでもならない。


「私は今生きている」

このたった一つの事実を出発点にして、深刻な反省と考察を加えつつ、静かに、如来の生命にふれさせてもらおう。


(『新住岡夜晃選集』[二]より)