「如来本願の真意」1

不惑

私はいつしかに四十歳になった。

如来の大悲本願に催されて、細々と白道の歩みを続けること十有六年。
古来四十歳をもって「不惑」と言う。

孔子は「四十にして惑わず」と言ったが、惑わざるどころかいよいよ名利愛欲の広海(こうかい)に大山(だいせん)に迷惑沈没(めいわくちんもつ)、造悪無碍(ぞうあくむげ)、散乱放逸(さんらんほういつ)、無慚無愧(むざんむぎ)、永劫久遠の我を、惑の一字に凝視するものではあるが、しかしこれを世間的に言えば、今さら人生に生まれ出で、仏教人として立つに何の不安もなく、後悔もなく、大臣大将を求めず、金満家、事業家等々になりたくもなく、いよいよ仏教者の一員として終始することの喜びと、過去四十年の歩みに対して、絶対尊重の合掌感謝を拒むことはできない。

不惑の年とはよくも言ったものだと感ずる。

私は今、不惑の年の新年にあたり、如来の王本願を願生の大信海において、さらにさらに味甞(みしょう)し、
改めてより深く、より純粋にその真意を頂戴して、いよいよ如来の本願を大地に生きんとし、なお同胞にこの喜びを分けたいと切念して、本願文及び本願成就文について号を追うてペンをとることにしたのである。