郁三少年は明治四十二年三月、高等小学校を卒業して広島師範学校に入学しました。数えで十五歳の春です。師範学校は広島市内にあり、当時五年制だったようです。住み慣れた家と両親の元を離れて五年間も寮生活をすることは、郁三少年にとって、子供から大人になるために誰もが通過しなくてはならない大きな節目のようなものでした。勉学はもちろんのこと、この五年間のさまざまの生活体験が、彼を人間的精神的に大きく成長させていったことでしょう。
しかし長男が急にいなくなった住岡家は、火が消えたようにさびしくなり、まだ幼い弟の秋作さんは夕方になると悲しくなって、大きな声で泣いていたそうです。妹の佐々木田鶴代さんの回想によると、六人の弟妹たちは、毎日のように兄からの手紙を待ちわび、手紙が来るたびに歓声をあげて封筒をあけ、小さな額を寄せて読みあっていたとのこと、弟妹たちがお兄さんの手紙によってお互いに発憤し、励ましあうさまは、まさに純情そのもので、想像するだけでもほほえましくなります。
長い待ち遠しい一学期が終わり、夏休みになると、郁三少年は新しい友達を連れて帰ってきました。そこには、身体的にも精神的にも一段と成長を遂げ、いまや子供から大人への階段を一段も二段も登った、りりしい一人の青年がいました。弟妹はもちろん両親にとっても、郁三少年の目を見張るようなその成長ぶりに、かえって直視できないようなまぶしさを感じられたようです。一緒に植物採集や昆虫採集を行うなど、科学的な知識の世界を探求する喜びが彼の表情にあふれていて、それも彼の精神的世界の広がりを雄弁に物語っていました。
師範学校時代の先生を物語ることがらの一つに、鹿の解剖がありました。それは、田鶴代さんの回想によれば、おおよそ次のようなものでした。
師範学校四年生の夏休みのある日のこと、本家の憲一が山から駆け下りてきて郁三を呼び出し、二人で緊張した面持ちで何かヒソヒソ話をしていた。すぐに二人は家を出て、しばらくして死んだ小鹿を一頭背負って帰ってきた。小鹿はひそかに人里離れた、竹やぶに囲まれた炭小屋に運び込まれた。郁三は解剖する前に妹に線香を持ってこさせて、それに火をつけ、合掌黙祷した。そしてまず皮をはぎ、幅広い板に張り付けて、次にやおら おなかを開いて内臓を正確に写生した。そして内部の臓器の働きを私たちに説明してくれ、一つ一つ取り出して、番号をつけ、ガラスのびんに入れてその名称をびんに貼り付けた。教科書や解剖書、参考書と首っ引きで、血に染まった手で書き込んでいく兄の姿には、何か近寄りがたい崇高なものを感じた。極度に緊張し、しかも自信に満ちた面差しはその場にいた者に強い印象を与えた。小鹿をかわいそうに思うものはだれもいなかった。
このようなエピソード一つ見ても、夜晃先生は、決して主観にとらわれず、客観的な真理と事実を何より大切にする、宗教家として最も必要な資質を豊かに持っておられた方であることがよく分かります。その点は科学者に共通するものがあります。
(「真実のみが末通る〜住岡夜晃の生涯」は、『住岡夜晃先生と真宗光明団』2008年刊行の文章を再掲載したものです)