「真実のみが末通る」〜住岡夜晃の生涯〜3【師範卒業と進路の煩悶】

 先生は大正三年(一九一四)広島師範学校を卒業されました。数え年で二十歳でした。卒業が近づく頃、成績が優秀であった夜晃先生は、学校の先生から進学を勧められて、進学を希望しておられました。学校の方からも、直接お父さんに進学を勧める話があったようです。しかしお父さんは、当時としてはすでに老境に入り始めておられて、とても無理なことでした。夜晃先生は中々あきらめきれず、色々な方法で両親に進学させて欲しいと懇願されたのですが、両親の態度は変わらず、ついに不可能であるとさとって、両親の前で「分かりました。就職します」と言い切られました。お父さんはなんども「すまんノウ」とわびられたそうです。
 このような親の反対によって子供が自分の希望する進路を絶たれることはこの当時よくあったことですが、やはり夜晃先生にとっては大きな挫折であり、今後の先生の行き方に何らかの影を落としたのは事実です。
妹の田鶴代さんはこの件について、「このことが、やがて兄の運命を大きく変える岐路であり、一つの分岐点であることを知る由もなかった」と述べておられます。
 先生が初めて奉職されたところは、同じ山県郡内の吉坂村(現在の北広島町今吉田) の吉坂尋常高等小学校でした。吉坂小学校は、先生の郷里である原村(中原)から約十キロ離れたところにあり、現在の「真宗光明団豊平道場」はそのすぐ近くです。

吉坂小学校訓導時代の先生

 夜晃先生が教職に就かれたお年は、満で一九歳ですから、文字通り初々しい青年教師の誕生です。先生は、師範学校で受けた薫陶をもとに、理想と情熱に燃えて、一人一人の子供に熱心に取り組んで行かれたに違いありませんが、その貴重なご体験については、先生自身はほとんど何も語っておられません。ただ、先生は、身辺の世話をしてもらうために、まだ高等小学校の生徒である妹の田鶴代さんを、都谷小から吉坂小へわざわざ転校させて一緒に生活しておられたので、その田鶴代さんの書かれたものでその様子が少し分かる程度です。
 それによると、まず先生の外見は、背が高く、色白で目鼻立ちの美しい中々の美青年だったようです。「もめん織りの三つ紋の羽織に、白いじゅばんのえり、白いたびをはいて、気取って歩む人であった」(田鶴代さん)とありますから、想像がつきます。その頃先生は横笛を買ってきて、夕方など、しだれ柳の下で静かに横笛を吹いておられたということですから、そんな先生にひそかに心を寄せる女性がいたとしても不思議ではありません。
 その頃の先生の優しさを知るエピソードの一つを田鶴代さんの書かれたものから紹介しましょう。テーマは〝肥やし騒動〞です。
 ある朝、それはまだほの暗い明け方であった。突然窓をたたかれて夢を破られた。なんだろう、「田鶴起きて見ろ。」私はおそるおそるカーテンをとって見た。頬かむりをした村人が数人、ただならぬ雰囲気が感じられた。
「先生起きて下さい。」と厳しい声、早速兄は服装を整えて外に出た。
 「先生こっちに来て下さい。」兄は村人に連れて行かれた。一時間ばかり帰らなかった。帰った兄は不機嫌であった。しばらく経ったとき、女の声で、「先生今朝はありがとうございました。」とオイオイ泣いてあやまっておられた。兄はとてもあわてて、「はようお帰りなさい。何もいわないこと。知らないことにしておきなさい。」と厳しく言い聞かせた。
 学校の肥やしを夜盗んで畑にかけて、知らない顔をしていた人がいた。すると近所の人が見つけた。その人は先生(兄)の許可をもらったのだと主張して譲らなかった。村人は兄(先生)の口から否定してほしかったのである。しかし兄は「私が頼まれて許可した」と言って、平あやまりにあやまって帰って来た。その当時、学校の肥やしは農民が集まって役場で入札して最高の価格を書いた人に落札して、一年間その権利を獲得する仕組みであった。その値段は村の収入の一部になる。はっきり兄は法を犯していた。その話を役場の収入役の家であそんでいたら、(その家の)おばさんが教えてくれた。子供心に悲しかった。兄にその話をすると、兄は「ぼくがほんまにそんなことをすると思うか。あの人はぼくが(罪を)背負わない限り、戸籍が汚されるのだ。あんなにしょげているのを見ると、ぼくはあの子らがかわいそうで、何年か後、ぼくの背負うた罪は消えるが、一度訴えられたら犯罪者として生きていかねばならないのだ。お前もつらいだろうけど辛抱してくれ、誰にも言わないと兄さんに約束してくれ。」兄と私は指きりげんまんをした。


 
 先生はまた、ただ真面目でまっすぐなだけでなく、どこかゆとりがあり、茶目っ気とユーモアに富んだ一面を持っておられました。先生の人間としての豊かさと魅力はそういうところにもありました。今、佐々木田鶴子さんの回想録によって、その好例を紹介いたしましょう。    
 それはある大雪の降る夜のことでした。ある家の取り嫁取り婿の結婚披露宴の時のこと、誰も見たこともない大変美しい麗人がある男性に連れられてお酌にまわりました。みんなきっと婿方の身内のものと思っていました。背が高くて、身振り手振りもじつに優雅で、その上にこやかな笑顔を絶やさず、なんともいえない魅力的な風情でした。みんなは手ぬぐいをとってどうか顔を見せて欲しいとしきりに要望しましたが、おつきの男性が、「まことに申し訳ありませんが、当人はどうしても嫌がりますのでご勘弁を」といって取らせません。しかしみんながあんまり強く催促するものだから、それではといって男性が手ぬぐいをとると、「やあア!」といっせいに喚声があがりました。なんとその美人は見事に女装した郁三青年だったのです。その座の雰囲気が一挙に盛り上がったことは言うまでもありません。
 先生には時々こんなお茶目なところがあったようです。その他にも色々エピソードがあるようですが割愛します。

(「真実のみが末通る〜住岡夜晃の生涯」は、『住岡夜晃先生と真宗光明団』2008年刊行の文章を再掲載したものです)