「真実のみが末通る」〜住岡夜晃の生涯〜4【『歎異抄』との出遇い】

 吉坂小学校時代の先生にとってもっとも大きな出来事は、親鸞聖人の語録である『歎異抄』と出遇われたことでした。きっかけは、学校のすぐそばの「薬王寺」の住職である広沢蓮城先生からその本をいただかれたことでした。
 その時の様子を、妹の田鶴代さんが昭和四十年の「光明」誌に書いておられますので、その文の一部を紹介したいと思います。そのころ田鶴代さんは薬王寺の日曜学校に毎週通っておられました。
 
ある日、先生(広沢先生)は小さな本を私に渡しながら「お兄さんに差し上げます」とおっしゃった。今でもはっきり覚えている。二つの手に持ちながら、お称名をとなえつつ、・・・向きを変えて私にむけて「どうぞ」とおっしゃった。明るい明るいお顔であった。( 中略 )  兄は私の日曜学校の終わりしだい私と一緒に中原に帰る日であった。兄は黙ってその本を読み始めた。すると兄は、「兄さんはこの本が見たいから田鶴一人で帰れ。そのかわり今度本を買ってやる」というのである。( 中略 ) 今吉田(吉坂)に帰ってみると、兄はやっぱりその本を読んでいた。赤い鉛筆を持っていた。・・「ただいま帰りました」と手をついても返事もしないで、父のことも母のことも聞かず、「オイ、侍従武官、( 田鶴代さんのこと )お前は大変なことをしたぞ。ここへこい」といきなり私をひざの上に抱きながら、大粒の涙を私の顔に落として泣いた。私はどうしてよいか分からなかった。しかられているのではないことは分かった。そして私を離しながら「お前はよい子だ。連れてきてよかった。この本は『歎異抄』というありがたい本だ。お前は大変なことをしてくれた。兄さんは何回読んだか分からない。それはそれはありがたい本だぞ。」と言ったのを覚えている。

 広沢先生は夜晃先生より六つくらい上の方だったようですから、宗門の学校を卒業して自坊に帰っておられたのではないかと思われますが、夜晃先生はその広沢先生のところへしばしば出入りして、色々と自分の煩悶を聞いてもらったり、念仏の教えをお尋ねになられた節があります。そうでないといきなり『歎異抄』をお渡しになるということは考えられません。
 その頃先生は県立師範学校の付属小学校から訓導として招かれておられたようです。師範学校を出て間もない青年教師が、機会あれば教育界に雄飛することを夢見たとしても、それを非難する資格は誰にもありません。しかしこれも両親の強い反対によってあきらめるほかなく、そのことを強く恨んでおられた時期がありました。先生は後年に、二十代の自分の過去をふり返って次のように述べておられます。
 
 私の過去は決して楽なものではなかった。二十歳の春、世の中に出てから今日までかなぐり捨てることの出来ない苦の中に生きねばならなかった。(中略)したがって私の信心生活は、恵まれた者の素純な合掌ではなしに、渋い苦いひねくれ者の血の宗教であり、悪逆者の帰命である。
 
 内面にはさまざまな苦悩を抱えておられた先生が、『歎異抄』と出遇われてどのような感動を持たれたのか、特にどの章のどういう言葉を頂かれたのか知りたいところですが、先生の書かれたものの中には見当たりません。ただ、田鶴代さんの文の中に、先生は「自身はこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に没し常に流転して、出離の縁あることなき身と知れ・・・」 (後序) を拝読されるときは、しばし黙して瞑目しておられたとありますから、先生が『歎異抄』から何を頂かれたか、少し推量できます。
 その後いつのほどにか、今吉田の狭い先生の部屋に近くの青年がたくさん集まってきて、先生の話を熱心に聞くようになりました。おそらく先生はそこで『歎異抄』に出遇った感動を涙ぐんで語っておられたのでしょう。

その後『歎異抄』については「歎異抄講話」として、昭和12年5月より「聖光」誌上に連載された。
写真は『住岡夜晃全集』第17巻より


 このように、後年の先生の獅子奮迅の宗教活動の芽はすでにこの吉坂小学校時代にあったことが分かります。そのきっかけは『歎異抄』との出遇いであったことも特筆するべき事柄です。
 先生は吉坂小学校には二年間おられて、すぐに広島市に比較的近い安佐郡飯室村( 現在の広島市安佐北区安佐町 ) の、飯室尋常高等小学校に首席訓導(教頭)として赴任されました。