「真実のみが末通る」〜住岡夜晃の生涯〜6【光明団の誕生 (2)】

 さて、光明団の機関誌となる「光明」の第一号は、大正八年(一九一九年)一月、広島県安佐郡飯室村の飯室小学校の粗末な狭い宿直室で、謄写版刷りで生まれました。それは雪の降り続く寒い日でした。発行部数は数十部だったようです。しかしこの「光明」を見た村の三、四十人の若者たちはただちに反応して、先生のところへやってきました。先生はこの「光明」の発刊について、後に、「彼(『光明』)の使命は、決して今日の如く大きなものを理想(予想?)せられてはいなかった。一村の問題であり、青年仲間の小さい営みであったのだ」と述べておられますから、初めから「光明団」という宗教団体を作るおつもりはなかったのではないかと思われます。

 実際に初期の「光明」の先生の文章の中には仏教用語は全くありません。書いてあることは、専ら正しい人としてどう生きるか、苦しいことから決してにげてはならないといった人の道についてです。しかし「光明団」という名称は初めから使われていますので、「光明」をはじめて見た人は、これはてっきり修養団体だと思われたに違いありません。先生の本心はもちろん親鸞聖人の教え、浄土真宗の教えを自ら頂き、人に勧めることにあったのですが、それは心中深く蓄えてしばらくは表面には出さず、表面では専ら人が真に人になる道を説くことに力を注がれました。そこに先生の深い配慮があったに違いありません。「光明団」の上に「真宗」をつけて、「真宗光明団」という名称を用いられたのは、五周年大会の後のことであったようです。

 考えてみると、私たちが宗教(仏教)によって救われるとは、人間として生まれた者が真に人間になるということ、人間として生きることの尊さに目覚めるということ、このことに尽きるという一面があります。人の道を説くだけならば修養と同じものになりますが、先生の書かれたものを注意深く見てみると、随所に目覚めるという言葉が使われています。この目覚めるという一点において、修養と宗教との間には天地の差がありました。なぜなら仏の智慧によらない限り人は自らの迷妄に目覚めることは出来ないからです。「光明団」の「光明」が、本来仏陀の智慧を表わしていることは明らかなことでした。

『住岡夜晃全集』第一巻より

 毎月発行される「光明」が活版印刷になったのは二年後のことでした。それだけ反響が大きく、読者の数がどんどん増えていったのです。月々の印刷代と郵送代は、団員になって下さった人から紙代として、毎月三銭受け取っておられたようですが、とてもそれだけでは足りなかったので、先生の俸給の何分の一かはその費用に当てられました。また先生は田舎の両親への仕送りと弟の学資を出しておられたので、先生の生活は食べていくのがやっとという厳しいものでした。後に、「一足の足袋(たび)で一冬を過ごし、裏のない洋服で三冬を忍んだのもこの頃のことであった」と回想しておられます。

 また、「光明」誌発刊前後数年間の、先生の勉強ぶりはすさまじいものがありました。「午前二時、三時の起床、寝床を取らない幾夜、風呂にすら入らない幾週間。私にとってのなつかしい絵巻物である」とは、後年の先生の述懐です。

 また経済的ゆきづまりや反対運動など、幾多の苦難が次々と押し寄せて、「もうとても続けられない、今月限りでやめようと何度思ったか知れないが、そのたびごとに私を奮い立たせたのは、『念願は人格を決定す、継続は力なり』という私の信条だった、この信条から起こる声を聞くと、不思議に新しい道が開けた」とも述懐しておられます。夜晃先生のご生涯を貫いたこの言葉が、すでにこの頃生まれていたことに注目したいと思います。
 もちろんその背後には、陰から先生を応援し、先生の力になってくださった方々も沢山あったことでしょう。

(「真実のみが末通る〜住岡夜晃の生涯〜」は、『住岡夜晃先生と真宗光明団』2008年刊行の文章を再掲載したものです)