「真実のみが末通る」〜住岡夜晃の生涯〜8【異安心の非難】

盛況だった五周年大会

 先生の身を削るようなご苦労の結晶である「光明」誌の反響は大きく、一年、二年とたつうちに団員の数もどんどん増え、大正十一年の暮れから十二年にかけて、地元飯室の青年男女はもちろん、公職について村を支えている人々までが、先生の主張に耳を傾けるようになりました。毎月の例会は幾百人の人で会場が一杯になり、立錐の余地もないくらいだったそうです。先生は学校では主席訓導(今日の教頭職)として責任を十分に果たされつつ、日曜や休みの日はあちこちから頼まれて講演に出かけられるという多忙さでした。
 大正十二年(一九二三年) 三月の末の二十九〜三十一日の三日間、光明団五周年記念大会が飯室の養専寺を会場にして盛大に挙行されました。養専寺の御住職の全面的なご協力があってのことです。記念大会の講師は、当時華々しく活躍をしておられた仏教済世軍の真田(さなだ)増丸先生でした。
 夜晃先生の妹さんの花岡美津子さんの回想録によると、五周年大会の宣伝のために、自転車の宣伝隊が十台ずつ、花をつけて三方に向かって繰り出されたそうです。当日はお寺の門前には光明団五周年大会のアーチが立てられ、イルミネーションが明滅して、境内はお参りの人であふれていました。すでに近隣の村はもちろん、広島市内にも光明団の支部が出来ていましたから、その人々がこぞって参加されたのです。もちろん参加者は団員だけではありません。本堂の外に大きく掛け座が作られていましたが、それでも足りないで、第二会場まで用意されていました。まさに飯室村は全村あげて光明団一色となり、村長さん以下村の幹部までが大会の役員となって三日間の大会を支えて下さったのです。今日では全く考えられないことですね。
 真田増丸先生の講演について、夜晃先生は次のようにおっしゃっておられます。
「明確な純一無雑な信仰を説き、徹底せる報謝の生活を叫び、政治にふれ、吾人の使命を絶叫する先生。説く人もなく、聴く人もなく、会場もなく、時間も知らず、全てこれ融和して一つの三昧あるのみ」
であったと。
 このように五周年大会は想像を超えた盛大なものでしたが、それではこの大会は何か浮わついたお祭り騒ぎ的な一時的な行事であったのかというと、決してそうではなかったのです。確かに感激して会場の雰囲気に酔うという一面もありましたが、それも仏教、本願の教えの真実に触れた喜びから生まれたものであり、深い懺悔を伴った感謝の表現だったのです。したがって夜晃先生は、静かな、底力のある感動が会場にみなぎっていたとおっしゃり、真田先生も「静かな盛んな大会」とおっしゃったようです。このようにして多くの余韻を残して五周年大会は幕を閉じたのでした。しかしその直後に、光明団の存立を揺さぶるような大きな試練が待っているとは、さすがの夜晃先生にも分かりませんでした。

異安心の非難

 予想をはるかに超えた盛況であった白熱の大会が終わると、それを待っていたかのように、「青い魔の手」が動きはじめました。光明団は異安心である。俗人で教職にあるものが仏法を説くとは何事か、教職にいたければ光明団をやめよ、光明団を続けるならば教職を去れという声がにわかに噴出したのです。すると今まであれほど熱心に光明団の活動を支持していた人々の多くが、手の平を返すように光明団を批判する側にまわり、次々と団を離れていく人が出てきました。何ということか!先生は、風見鶏のように、世間の風の向きが変わるとたちまち今までの態度を変えていく人間の正体をイヤが上にも見せつけられました。ゼロから出発して丸四年、ようやく軌道にのり、大きな手応えを得たと思ったとたん、絶望のどん底に突き落とされたような衝撃と苦悩を体験された先生の心中は、察するに余りあります。このような厳しい現実を、先生は〝法難〞として受け止められました。
 「異安心」(いあんじん) とは、安心とは信心の異名で、信心がまちがっているという意味です。それもどこかしかるべき機関できちんと審査された結論ではなくて、自分たちの今までの領解とは異なった、新しい考え方や行動に対して、それを排除して自分の立場を守るためにすぐに貼り付けられるレッテルのようなものでした。したがって、すべてがそうではありませんが、その多くは偏狭のそしりをまぬかれないものだったようです。今、「異安心」の問題と「教職と宗教」という問題とは、一緒に出来ませんので、ここでは、異安心の問題について取り上げます。この「異安心」の問題は、その後の光明団の前に立ちはだかった大きな壁でした。では異安心とは一体どのような内容なのでしょうか。
 この年の八月、郷里の本立寺で、火事で丸焼けになった本堂の新築の慶讃法要を兼ねた盛大な盆会が行われました。その時見えた高名のご講師(和上)が、開口一番次ぎのような話をされました。この和上は最近の夜晃先生の活動や三月末の光明団五周年大会以後の世間の動きをよく知っておられたに違いありません。
 「聞くところによれば、この部落には狂風とかいう青年教師がいるそうだが、仏さまの道は、そんな師範を出た小学校教師の青二才などに、一年や二年で会得できるほど簡単なものではない。はっきり言うが、狂風氏の説教は異安心である。そんな説教を聞いていると皆地獄に落ちるぞ」(要点のみ・田鶴代さんの文)
 一緒にお参りして和上の説教を聞かれたご両親を始め住岡家の人々の心はどんなに傷つけられたことでしょうか。傷心して家に帰ってみると、お父さんは枕をビッショリぬらして泣いておられたと、田鶴代さんは述べておられます。
 落ち着きを取り戻したお父さんは、「兄はやっぱり異安心かも知れん。もし異安心ならばこれは絶対に許されん。どれだけ多くの人を迷わすかもしれん。母さんはどう思うか」と聞かれました。お母さんは〝流し〞に行って涙を洗い流して、仏前に正座して香をたき、合掌礼拝して、そのままの姿勢で、「お父さん、これから兄の歩みます道のいかに厳しいか、今日み仏さまに見せて頂きました。兄の苦難な道は想像以上だと思われます。しかしどんなに険しい道であっても、仏さまを信じていく兄の道をついて行きましょう。兄を信じましょう」と答えられました。お父さんも「兄が異安心だと周囲から白眼視されても、真実のみ教えを、もう兄から奪うことは出来まい」と納得されて、ハラを決められました。このように、夜晃先生のご苦労の背後に御家族の全面的な理解と支援があったことを私たちは忘れてはなりません。

住岡夜晃による書画「吹雪の旅の親鸞聖人」(『新住岡夜晃選集』より)

 当時の「異安心批判」の多くは誤った他力思想から来るものでした。この問題について先生は、大正から昭和にかけての団の機関誌「光明」の中で取り上げて、厳しく批判しておられます。その中に次のような一節があります。
 「・・・こうなると飯を食えば自力、講演や説教を聞きに行けば自力、目覚めると自力、なんでもかでも自力になって遂には他力で救ってもらうといえば寝ておるより外には仕方がない。こんな馬鹿な他力を釈尊が説かれたり、七高僧や親鸞聖人などが体験したり、書き残したりされたのであろうか。もしそんなものが他力であるならば、他力思想はもっと昔に亡んでしまった筈である。」
 先生は仏法を聞いて目覚めるためには決して努力精進を惜しんではならないと、努力の必要性を誰よりも強調されました。もちろんそれは私の努力の結果目覚めるとか救われると考えておられたのではありません。仏の本願(他力)による以外にこの私が愚か者と目覚めることも、救われることもありえないことは重々承知の上で、そのためには私の努力精進を尽くす必要があると考えておられたのです。なぜならその本願に帰するためには、自力無功と自分の努力の限界にはっきり目覚める必要があるが、それが自力をよりどころにしている私たちには難中の難なのですね。努力とはそのための努力です。矛盾するようですが、努力の間に合わない、したがって努力の要らない世界に目覚めるためには努力を尽くさなければならない。仏法は聴聞に尽きるといわれるけれども、聞法ほど努力のいるものはありません。
 「法蔵(菩薩)の大願力に目覚めた者がどうして眠っておられよう」「懈怠なる者が浄土にゆくことは、河の水が下から上に流れていくよりも困難である」とは、その頃の「光明」誌の中の先生の言葉です。そのような先生の教えに対して、「めざめよというのは自力である。そんなまちがった教えに迷うてはならぬ」と批判した説教師があり、また先生の講演を聞いた同行の中に、「この先生の話は、このまま救うぞがないから異安心だ」と語ったお年寄りがあったそうです。
 このような誤まった他力思想に染まっている同行には、次のような二つのとらわれがあると先生は指摘しておられます。
① このまま救って下さるという言葉を持ってきて、その上に腰を下ろしていること。
② この悪い心(煩悩)はなくならないのだ。仏様はこれをなくして来いとは仰らないのだ、と煩悩の自分をゆるしていること。

 他力の教えが煩悩具足の凡夫をこのまま無条件に救って下さる教えであることはまちがっていませんが、それは仏の智慧によってこのままの煩悩の自分を徹底的に全否定されない限り言えないことです。助かる資格も手がかりも全くない煩悩具足のわが身とはっきり目覚めた者だけがうなづくことの出来る教えです。それを慚愧も懺悔もないものが結論だけを握って〝このままのお救い〞といったところに根本的な誤りがあったのですね。その他光明団と夜晃先生に対する異安心の批判はまだまだ色々ありました。それは後にまた触れたいと思います。

(「真実のみが末通る〜住岡夜晃の生涯〜」は、『住岡夜晃先生と真宗光明団』2008年刊行の文章を再掲載したものです)