「愛別離苦」住岡夜晃

独生、ひとり生まれて来たわれわれは、独死、ひとり死んでゆかなくてはならない。
その間にいかに多くの人に出会って愛し睦み親しみあっても、皆別れて行かなくてはならない。
人生の悲劇のほとんどが愛別離苦によって生まれる。
人は人に会う。そこに不思議な因縁を感ずる。
「袖の振り合い他生の縁」、友人、隣人、親族、兄弟、親子、夫婦、師弟等、様々な関係において人に会う。
互いに助け助けられて、愛し愛されて人生が成り立つ。

しかし人は会っただけで真に会っているであろうか。
会っても会っても会っていない、そこに人生の根元的なさびしさがある。
愛の世界のさびしさがある。
凡夫は凡夫でさびしく、聖者は聖者でさびしいのではあるまいか。
しかし凡夫はなれる。
「神にも仏にも馴れては手ですべき事を足にてするぞ」(蓮師)。
この馴れること、麻痺することによって、この愛のさびしさを忘れる。

けれども一度なれることによって平気になった凡夫も、愛別離苦に遭(あ)うや、忽ちさめて人生の根源的なさびしさにつれこまれる。
そして今更に共に相会った因縁について考えるのである。
わが子を餓鬼と叱った親も、わが子の死に会えば、これを祭壇に上げて拝む。
そしてその心が過去に対して深い内省をおこさせる。
かくして愛別離苦は人生を厳粛なものにする。

口伝抄にいわく「愛別離苦にあうて父母妻子の別離を悲しむとき『仏法を持(たも)ち念仏する機いふ甲斐なく歎き悲しむこと然るべからず』とて彼を恥じしめ諌むること多分先達めきたるともがら皆かくの如し。この条、聖道の諸宗を行学する機のおもいならわしにて、浄土真宗の機教を知らざるものなり。」と。
真宗念仏の世界はそうではない。
愛別離苦の悲しみを悲しみつつ、それゆえに本願を信じて念仏するのである。
罪悪深重を知るのも、曠劫より已来の流転輪廻を感ずるのも、ただ独生独死独去独来の絶対孤独の運命を知るがゆえである。

世尊の入滅に悲泣した仏弟子たちは、無常の嵐の中にかえって仏身の常住を感得し、罪業深重に覚めて無限の大慈悲を知った。

地上の何ものによってもどうすることもできない悲しみ、その悲しみのみが、この世ならぬ浄土を、彼岸のものである南無阿弥陀仏を求めさせる。
成功に得意になることができたり、人間の愛を真実と思うことができたりする人には、念仏は無用であろう。

しょせん人生は寂しい。それは人間の運命である。
この人間の宿業をごまかすことなく受け取って念仏する時、このさびしさに光が与えられ、ほのかなる喜びが与えられ、別れても別れることなき倶会一処の領域を知らされるであろう。
人生の寂しさは何ものによってもどうすることもできない。
ただこれを内に転ずる者のみが大慈悲の摂取の中にあることを知るであろう。
これのみが人間のたった一つの本当の在り方である。

(『新住岡夜晃選集』[五]より )