住岡 夜晃(すみおか やこう・1895〜1949)
明治~昭和時代を生きた真宗光明団の創始者。
1895年、広島県山県郡に生まれ、広島師範学校を卒業後、広島県内各地の小学校で教師を勤めた。
1919年、機関誌『光明』第一号を発行して光明団を創始。
その後、1949年に亡くなるまでの五十四年の生涯は求道と教育のために捧げられた一生であった。
彼は仏教を深く研鑽したが学者とはならなかった。鋭い直観による時代の洞察はあったが単なる思想家ではなかった。彼は終生求道者であった。そして教育者であった。仏教を単なる研究的対象として勉学することはできなかった。みずから仏教によって救われ、仏教によって終生自己を照らされていった。
また人を単なる人として対象的に見ることはできなかった。悩む人の友となり、苦しむ人の兄となった。そして自己の内に燃える本願の信の火を伝えようと努めずにはおれなかった。
その伝道法は時代の先端をゆく新しいものであった。彼は昭和の初年から受講者には島地大等師編さんの真宗聖典をもたせ、黒板を用いて講義を板書した。
その講義は三部経をはじめ七祖聖教、教行信証、その他大乗起信論などの仏典の克明な講義が主であった。このようなゆき方は、高壇の上からいわゆる説教調の説法をするのが普通であった戦前ではほとんど稀有な方法であったが、おそらく今日においてもなお異色を失わないものであろう。
彼ははじめ小学校の教師であった。寺院の出身ではなく、一介の在家者であった。後に宗教運動のため教職を追われ宗教家として立つにいたったが、終生僧籍をもたなかった。そのためきびしい圧迫を生涯受け続けたが、しかし彼は決してそれに反発せず、対立せず、また妥協しなかった。
「大法のごとく信じ、大法のごとく生き、いっさいに大法のごとく」を衷心の願いとして、終生、求道者として、教育者として歩んだ。
(参照 『真宗人名辞典』法蔵館)
若人よ
くれぐれも君に同情する
だがわたくしは 君の周囲が悲惨であり 淋しく孤独であることに同情するよりも
もっと、君が温室の花のごとく 今日まで弱々しく育ってきた君の過去の幸福に同情する
若人よ
その逆境を喜べ 枯れる葉は枯らせよ
落ちる花は落とせ
しこうして今一度 霜雪と戦って 芽を出し枝をのばし 花を咲かせよ
汝の真価は ただそこからのみ生まれ
汝の光は 苦闘によってのみあらわれる
あえて叱咤す
青年よ
涙の谷底より起ち上がれ
『讃嘆の詩』より
「真実のみが末通る」〜住岡夜晃の生涯〜
以前、創立90周年を記念して刊行された冊子『住岡夜晃先生と真宗光明団』を連載します。住岡夜晃の生い立ちから「真宗光明団」の創設、そして晩年までの生涯を丁寧に紐解いた内容です。
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「真実のみが末通る」〜住岡夜晃の生涯〜14【15周年大会と本部の建設】
15周年大会と本部の建設 昭和八年十二月、創立15周年の記念講習会が広島市内の八… -
「真実のみが末通る」〜住岡夜晃の生涯〜13【夜晃先生のご教化の特色】
夜晃先生のご教化の特色 ここで夜晃先生のご教化の特色について触れたいと思… -
「真実のみが末通る」〜住岡夜晃の生涯〜12【光明団の方向の転換】
光明団の方向の転換 今では考えられないことですが、本部が広島市内八丁堀にあ… -
「真実のみが末通る」〜住岡夜晃の生涯〜11【愛別離苦】
ここで先生の私生活について少し触れたいと思います。先生は大正十二年八月、二… -
「真実のみが末通る」〜住岡夜晃の生涯〜10【離郷と生活上の苦難】
離郷と生活上の苦難 同じ年の大正十二年十二月、先生は数十年住み慣れた故郷を離… -
「真実のみが末通る」〜住岡夜晃の生涯〜9【大いなる決断の時】
大いなる決断の時 先ほど触れたように、五周年大会のあと、宗教活動をするのなら…
住岡夜晃 関連出版物一覧
書名 | 発行年 | 発行所 | 内容 |
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新住岡夜晃選集 | 2018年 | 法蔵館 | 全集より抜粋 |
住岡夜晃全集(全20巻) | 1961〜1966年 | 真宗光明団本部 | 住岡夜晃の全著作 |
住岡夜晃先生(上) | 1984年 | 真宗光明団本部 | 自伝・書簡・遺訓・年譜 |
住岡夜晃先生(下) | 1981年 | 真宗光明団本部 | 伝記・追憶・座談会等 |
難思録 | 1977年 | 真宗光明団本部 | 晩年の著作 |
闡光録(せんこうろく)上・中・下 | 1950〜1951年 | 真宗光明団本部 | 住岡夜晃法語 |
讃嘆の詩(さんだんのうた) | 1987年 | 真宗光明団本部 | 住岡夜晃法語 |
讃嘆の詩(上・下) | 2003年 | 樹心社 | 住岡夜晃法語 |
(旧)住岡夜晃選集 | 1971〜1972年 | 山喜房佛書林 | 全集からの抜粋 |
住岡夜晃の年譜
西暦 | 年号 | 年齢 | 主な出来事 |
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1895年 | 明治二十八年 | 1 | 二月十五日、広島県山県郡原村大字中原三八七番地の二に生まれる。 父勘之丞、母コチの長男。郁三と命名されたが、戸籍にはあやまって都三と記載された。 弟妹六人あり。両親は法義にあつく、自宅にてしばしば法座を開き、両親とともに幼少のころより聞法す。 |
1901年 | 明治三十四年 | 7 | 山県郡原村明倫尋常小学校に入学。 小学校時代成績優秀により郡長に褒賞さる。 |
1905年 | 明治三十八年 | 11 | 山県郡都谷村都谷尋常小学校に入学。 |
1909年 | 明治四十二年 | 15 | 広島師範学校に入学。 |
1914年 | 大正三年 | 20 | 広島師範学校を卒業し、山県郡吉坂村吉坂尋常高等小学校に赴任。 |
1916年 | 大正五年 | 22 | 夏、安佐郡飯室村尋常高等小学校に首席訓導として赴任。校舎の西南隅にある八畳の一室で六年間をすごす。薬王寺、広沢蓮城師より歎異抄をおくられる。同村養専寺所蔵の大蔵経をひもとき、求道精進の日がつづく。 |
1918年 | 大正七年 | 24 | 夏、「信の火が点ぜられ、如来の慈光によみがえる」。 11月15日、住岡狂風の筆名によって「親しい若い皆様よ」と題する撒文を発表し、光明団は呱呱の声をあげた。 |
1919年 | 大正八年 | 25 | 一月、『光明』第一号を謄写刷りで発行。 |
1920年 | 大正九年 | 26 | 一月、『光明』第十三号発行。光明団総会を開く。 |
1921年 | 大正十年 | 27 | 二月、『光明』第二十四号発行。団員十名以上ある地方に光明団支部が設立されはじめた。 四月、光明団創立三周年大会。大会ののち『光明』は活字印刷となり、第三巻として発行。 |
1922年 | 大正十一年 | 28 | 私費を投じて『光明』の出版をつづける。 |
1923年 | 大正十二年 | 29 | 三月末、五周年記念大会が飯室村養専寺を第一会場とし、ほかに第二会場をもって開かれ、済世軍総裁真田増丸師が講師として迎えられた。第一団歌「慈悲の涙に結ばれて」を作詞、作曲。大盛会のうちに終わった大会の直後、教職を捨てるか光明団をやめるかの岐路に立たされ、教壇を去る決意を固める。 八月、石田八千代と結婚(哲子・公子・早枝子の三女をもうく。後、離縁す。 九月一日、「光明団」を「大日本真宗光明団」と改称し、本部を広島市外三篠町八八○番地におく。 十二月発行の『光明』原稿を原村の生家で執筆、五日の朝、祖先墳墓の前に嘆仏偈を捧げたのち、父母弟妹をともなって故郷をあとに広島へ移る。 |
1924年 | 大正十三年 | 30 | 三月、本部を広島市南竹屋町五四一番地に移す。 |
1925年 | 大正十四年 | 31 | 七月、団歌集『妙なる響』を刊行。 一月、長女哲子の死。 二月、二女公子誕生。 |
1926年 | 大正十五年 | 32 | 四月、本部を広島市八丁堀二六番地に移し、月初め三日間の例会をはじめ、加えて屋外伝道をはじめる。 七月、『光明』の姉妹誌『聖光』を発行。 十二月、光明団女子青年会を設立。団歌集『釣鐘草』を刊行。 |
1927年 | 昭和二年 | 33 | 四月、光明団に印刷部を設け、『光明』その他単行本の印刷をはじめる。 八月、福山市靹町明円寺において夏季講習会。以後四か年つづく。 九月、父勘之丞死去。『悩める女性の胸に』刊行。 十月、『念仏の父』刊行。 |
1928年 | 昭和三年 | 34 | 四月、山県郡加計町において山県郡太田部各支部連合大会を開く。 七月、三女早技子誕生。 十一月、『聖への扉』刊行。 十二月、龍谷大学亀川教信教授を迎え、広島市会芸備銀行階上において十周年記念大会、広島市の一般大衆に働きかける。 |
1929年 | 昭和四年 | 35 | 一月、結腸エス字状部イレウス症を発病し、二月末まで静養。 四月、三日間の春季大会。 十二月、報恩講。以後例年の行事となる。生活改善倶楽部を設立。 |
1930年 | 昭和五年 | 36 | 三月、春季大会。 八月、鞆町明円寺にて夏季講習会。 |
1931年 | 昭和六年 | 37 | 一月、『光明』と『聖光』とをまとめて『光明』として発行。団の活動目標が、これまでは大衆を獲得することにおかれていたが、この年より以後「外より内へ」と急角度に変わってゆく。 四月、石井英一の二女和枝と結婚。 七月、『真理への道』刊行。 八月、鳥取県東郷温泉において夏季講習会。「歎異抄」を講ず。光明団聖講習会の始まり。 |
1932年 | 昭和七年 | 38 | 二月、『最後の日』刊行。光明団勤労学生協会の設立。 八月、広島県厳島において夏季講習会。以後四か年「正信偈」を講ず。『愚禿の信境』刊行。 十二月、三日間の報恩講において「涅槃経と真一月、御正忌講座」。以後例年の行事となる。 |
1933年 | 昭和八年 | 39 | 二月、三日間の華厳講座。 四月、『我等の使命』を刊行。 八月、『聖光』復刊。山口県大島郡安下庄町安楽寺にて夏季聖講習会。 十二月、十五周年記念大会。「街に宣伝もせず、八丁堀の借宅で、形はきわめて静かに、しかし初めて真剣な空気の中で講習会が開かれた。」 同十九日、本部を広島市庚年北町五一九番地に移す。 |
1934年 | 昭和九年 | 40 | 一月、不惑の年を期して『光明』に「如来本願の真意」を四年間連載。 二月、光明団曰曜学校の開設。山口県都濃郡専宗寺において、御本典研究会。「証巻の大乗的地位」を講ず。 四月、『仏凡一体の妙境』刊行。 六月、光明団中堅隊を本部に招集して、以後三か年「大乗起信論」を講ず。 八月、本部において夏季聖講習会。教育部会の設立。盆会が例年の行事となる。第一回島根県各支部連合講習会。 十二月、報恩講において「正信偈」を講ず。 |
1935年 | 昭和十年 | 41 | 一月、第一回教育部会講習会。「教育の成立と宗教」を講ず。 六月、幹部講習会。第二十団歌「聖会の歌」作詞。 八月、第二十一団歌「別れの歌」作詞。 十二月、報恩講聖講習会。以後二か年間の春季、夏季、報恩講の三大講習会において「曇鶯大師の宗教」を講ず。 |
1936年 | 昭和十一年 | 42 | 一月、教育部会において「浄土の宗教と教育」を講ず。 二月例会までの一か月間ほとんど毎日講義と座談。 三月、春季聖講習会が例年の行事となり、三大講習会が定例化す。 五月、夜晃と改名。 |
1937年 | 昭和十二年 | 43 | 一月、教育部会において「大無量寿経と教育理想」を講じはじめる。第一回の台湾巡講。 六月、幹部講習会において「往生論註恩徳記」の講義がはじまる。 十二月、裁縫塾を開設し、石井梅窓が女塾々頭に任ぜられる。 |
1938年 | 昭和十三年 | 44 | 三月の春季聖講習会から三大講習会において「観無量寿経講話」が講ぜられはじめ、二十四年春までつづく。 四月、女塾の開塾式。 八月、二十周年記念聖会。 |
1939年 | 昭和十四年 | 45 | 七月、本部員越堂末人の死去。 八月、第一回山口県各支部連合講習会。 |
1940年 | 昭和十五年 | 46 | 四月、宗教団体法による宗教結社届をなし、従来の支部を解消して、新しい光明団規則によって支部を再建。 五月、光明団教師規律をさだめ、審議会を設ける。朝鮮へ巡講。 八月、『光明』『聖光』が政府の命令によって廃刊となる。 |
1941年 | 昭和十六年 | 47 | 一月、『医道実践と仏教』刊行。 |
1942年 | 昭和十七年 | 48 | 一月、山口県巡講中、右田支部脇医院において慢性腎臓病を発見、その後七月末まで塩分を絶って病床生活。 三月、本部員増田きさよ死去。 |
1943年 | 昭和十八年 | 49 | 六月例会まで十か年つづいた「浄土和讃講義」を講讃しおわり、 七月例会から新しく和讃を講じはじめる。 九月、広島文理科大学および広島高等師範学校学生の健民修練所を本部に開設し、翌十九年五月まで、三期の健民修練生が念仏の薫陶を受けた。まもなくこれら学生を中心とした土曜講座が開かれ「歎異抄」を講ず。 |
1944年 | 昭和十九年 | 50 | 太平洋戦争の戦局が悪化して、物資が極度に不足するなかで、本部の行事をつづけ、各支部を巡講す。 |
1945年 | 昭和二十年 | 51 | 一月、御正忌講習会において「御本典教巻」を講ず。 六月、本部員佐々木温三死去。 八月六日の夏季聖講習会中アメリカ軍の原子爆弾投下により本部建物七割破損。 十月、本部を山県郡加計町佐々木権吾宅にうつす。 十二月二十日、本部の建物を応急修理して広島へ帰る。 |
1946年 | 昭和二十一年 | 52 | 一月、教育部会の講義なく、病床にて法話。本部階下の一室に仮に仏殿を安置し、臨時講座として御正忌の会座をいとなむ。病床にて「御本典教巻-出世の一大事」を語る。 八月、夏季聖講習会、「観経真身観」を講ず。 十二月、報恩講。加計支部において第一回広島県各支部連合講習会。「三願転入論」を講ず。 |
1947年 | 昭和二十二年 | 53 | 一月、教育部会。「観経における教育の成立」を講ず。御正忌講習会。「御本典行巻」を講ず。 二月、臨時講習会。「御本典真仏土巻」を講ず。三月、春季聖講習会。八月、夏季聖講習会。観経三心釈を講じはじめる。盆会。「阿弥陀経」を講ず。 十二月、報恩講。 |
1948年 | 昭和二十三年 | 54 | 一月、『光明』を復刊。「大慈悲」「難思録」を連載。教育部会。「教育と宗教」を.講ず。 二月、冬期講習会 三月、三十周年記念講習会。 四月、三女早枝子 山田政治と結婚 六月、土曜講座において「大乗起信論」を講じはじめる。 八月、夏季聖講習会。 十二月、報恩講。 |
1949年 | 昭和二十四年 | 55 | 一月、教育部会。「親鸞の仏性及仏身観」を講ず。御正忌聖会。「御本典行巻」を講ず。団歌集『金の鼓』刊行。 二月、冬期講習会。「御本典真仏土巻」を講ず。 三月、病をおして右田支部十五周年記念講習会に「自然法爾章」を語る。 三月、春季講習会。『法林』出版。 四月五日、夜の.勤行の後「歎異抄」法話がはじまる。 五月、以後の例会を五日間とす。黒沢支部十五周年講習会に花岡悲風師代講。 六月、『華園』出版。幹部講習会。 七月、福山支部にお.ける広島県連に「自然法爾章』を講ず。 八月、夏季講習会兼教育部会。会員に「病床述懐」を托し、花岡悲風、武井諦了、柳田西信の諸師代講。学生部会兼盆会講習会に花田保太、山本超雄両師代講、島根県連に柳田西信師代講。 九月、山口県連並徳山支部創立十五周年記念大会に大森忍師代講。 十月『光明』第十号に「従仏逍遥」が連載され始め、第十一号掲載予定の原稿が一枚書き遺されて絶筆となる。 十月十一日午前零時零分、腎臓病のため死去。十三日柳田西信師導師となって光明団葬執行。 |
[ウィキペディア「住岡夜晃」2023年1月29日 (日) 02:08の 巖上の松 による投稿は、このウェブページの作成者によるものです。]